トルコの大地震

災害のむごさを知っている日本人だからこそ
身につまされるものがあります。

私は、日本のことを学ぶ中で
トルコと日本の友好関係について調べたことがあります。

いまテレビでもちらほらと名前の出て来る
エルトゥールル号のことです。

浅学で恐れ入りますがお伝えいたします。
最後にトルコ大使館の口座を記載します。


明治23(1890)年のこと、
トルコの使節団がエルトゥールル号という軍艦で日本を訪れました。
日本で友好を深めた後、9月14日に横浜を出港しました。
しかし不幸にも台風が直撃し、トルコ使節団660名を乗せたまま、
和歌山県大島付近で沈没してしまいました。

当時の記録には、船体の破片が山をなし、
荒々しく激しい波に海面に死体が浮いている様子が記されています。

深夜で暴風雨というとても悲惨な状況でしたが
事態を知った大島の島民たちはひるむことなく救助に立ち向かいました。

「『まず生きた人を救え!』。海水で水を洗い、兵児帯で包帯をし、泣く者、わめく者を背負って約60mの崖をよじのぼるものは無我夢中である」という記録も残っています。

暴風雨のため火をおこせず、
島民はトルコ人を腕に抱いて温め、介抱したといいます。

実は、住民たちは台風で漁ができず、
自分たちの食べ物にも事欠いていましたが、
非常用に飼っていた鶏などをトルコ人に食べさせて介護しました。

この努力によって69名のトルコ人の生命が救われ、
島民の懸命な努力によって多くの遺体を収容し、埋葬されました。

このことは和歌山県知事から明治天皇に伝えられ、
明治天皇はただちに医師と看護婦を派遣し、
生存者全員を軍艦「比叡」と「金剛」に乗せてトルコに帰還させました。

日本全国からは、たくさんの義援金が寄せられました。

この義援金をトルコの遺族まで持参したのが山田寅次郎です。
そのままトルコに留まり、日本とトルコの友好親善に尽くしています。

遭難現場付近の串本町南紀大島とトルコには
同じ形の慰霊碑が建てられていて、
現在も5年に1回慰霊祭が行われています。



そして時は近代にうつり、1985年3月18日、
サダム・フセインがイランの上空を航空禁止区域としました。

テヘラン在住の日本人約500名をただちに救出しなければなりません。

外国の救出機は満席で日本人を乗せてくれませんし、
日本側も決断に時間を要してしまい、
救出までのタイムリミットに間に合わなくなってしまいました。

もはや日本人全員がテヘランに取り残されるかと思われた土壇場で、
トルコ航空がチャーター便で日本人を救出してくれました。

タイムリミットの1時間前で、
トルコ航空のパイロットと搭乗員は死を覚悟してのフライトだったといいます。

トルコ人が、日本人を救出しよう!という感情を持った背景に、
エルトゥールル号のことがあります。

エルトゥールル号事件は悲劇ではありましたが、
友好関係のはじまりでもあります。

69名が救出され手厚い看護を受けたことは、
トルコの歴史教科書にも掲載されています。

トルコでは子どもでさえ知らない人はいないほど歴史的重要な出来事です。

トーゴーやノギという名前の人がいたり、トーゴー通りがあったり、
サッカーのワールドカップでは日本を応援するトルコ人サポーターもいます。

トルコ国内の世論調査では、
日本が常に「好きな国」のトップにランクされています。

※参考文献「先生、日本ってすごいね」より


日本とトルコには、このような背景がありました。

最後にトルコ大使館の口座を記載します。
—–
①駐日トルコ共和国大使館
三菱UFJ銀行
渋谷明治通支店(470)
普通 3195717
TURKISH EMBASSY
②在名古屋トルコ共和国総領事館
三菱UFJ銀行
名古屋営業所(150)
普通 1273225
Turkish Consulate General
—–
大使館・総領事館に集められた義援金は、
災害緊急事態対策庁(AFAD)に届けられるそうです。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。